無邪気さへの回帰

2016/01/12 10:08 に Kusum Ishaya が投稿   [ 2016/01/14 13:04 に更新しました ]

今日は、年末に心を温めてくれた、たかし君とのやり取りをご紹介したいと思います。


たかし君は昨年、東京でコースを受けてくれたんですが、便利屋さんをお仕事としていて、請け負った修理・修繕、その他の

仕事をブログにアップしています。ブログからは、請け負った仕事ひとつひとつに対する深い感謝が伝わって、仕事への姿勢がアセンションそのものだなぁ、と、読むたびに感謝が湧きます。

そんなたかし君から、”アセンションは最近、浅くなったような気がします。”という報告をもらいました。

詳しく聞かせてくれるかな?というリクセストに、こんなお返事が返ってきました。


『瞑想しても、静かな感じや緩む感じが前よりも少なくなっているような気がしています。

それから、初めのころは物凄く深く緩んで思考がなく、体や周りの音とすべて一体みたいな感覚が有るときもあったけど、それは今はないですね。

というか、今の状態は今の状態で、そのままそれなんですが、^^無邪気さを忘れて、過去を

求めていますね。^^

イシャヤの瞑想に対しては、今はそんな気分です。

ビパッサナは年に1度はコースに参加して、ダンマの大河に浸りなさい、と推奨しているのですが、イシャヤもそれができたらな~と、最近とても思います。

一人では出来ないことも、みんなとなら出来ると思うので。日本にイシャヤが拡がり、近くで集まって瞑想会できたらホント幸せです。』


最初の頃、とてもいい経験ができたのね(^^)。

「人とアセンションするときに比べて、一人でアセンションすると静けさが体験できない。」

「コース中と比べて、家に帰ってアセンションするとやりづらい。」

というのは、アメリカでも日本でも、よく聞く感想です。

経験というのは常に変わるものですが、マインドは”好みの経験”を決めて、しがみついて、同じ経験を求める性質なんですね。

良いも悪いもない、ただ、そういうものです。


また、初めて習ったときは無からの経験で、新しいものの衝撃がはっきり感じられますが、同じ経験が続けばやがて慣れ、

目新しさは失われます。暗い部屋から明るい太陽のもとに出たら、最初は眩しいですが、ずっとそこにいたら慣れるのと

同じですね。

静けさやゆるむ感じはその対照を持って初めて経験されます。

ー騒音があって静けさがあるー

ー緊張があって緩みがあるー

なので、もし”経験”を追い求めるならば、より深い静けさを経験するためには、より大きな騒音を、より深い緩みを体験するためには、よりきつい緊張の体験を必要とします。

二つの極の間で揺れ続けることは、苦しいものです。

最初は、好みの側に振れている時は気にならなかったりしますが、やがてこの止まらない、終わりのない揺れに疲れます。

たかし君は幸い、自分が経験を追っている、ということにちゃんと気づいていました。

そしてすぐ、こんなメッセージを届けてくれました。


『アセンションするとき、長い間無邪気さを忘れていたなと、思います。

無邪気さが、とっても重要なのを今朝思い出しました。 ただ、その言葉なんだと。

ありがとうございます。』


ありがとう(^^)!

アセンションは、どんなに経験が変わっても、それに一切影響されない私たちの自然な本質をあらわにします。

無邪気さというのは、私たちの(すべての存在の)本来の、ごく自然な性質であり、条件付けられたマインドの動きの中から作り出せるものではありません。

これは私たちの、すべての存在の本質であるがゆえに、ただ機械的に、淡々とアチチュードを思い浮かべる時、ごく自然に復元されます。

”ただアチチュードを思い浮かべる”

それ自体が限りなく無邪気なんですね。そして無邪気さは限りない自由でもあります。


今年も4月に日本でコースを開催することにしました。詳細はまた後日掲載しますが、またみんなと一緒にアセンションできるのを心から楽しみにしています。


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